カナリヤです。日常報告シリーズ音楽編。前回はこちら。
疲れています。それは自分らしい生活をこなせないことへのフラストレーション故に。浅学非才な僕は、こうして残滓に思いをぶつけることでしか、己を誤魔化す術を知らないようです。
書籍
屈折くん
メタルサウンドに津軽弁での歌唱、怪奇をテーマとした世界観の歌詞を駆使して、独自の音楽性を有するロックバンド「人間椅子」。そのフロントマンである和嶋慎治氏の自伝。いじめの標的にされた幼少期。厳格な教育者だった父。象徴的なUFOとの出会い。レコード店での"運命"の出会い。アパート階下から出てきた孤独死体。和嶋氏自身が書き上げた自らの"暗黒面"と語る半生はその淡々とした文体と随所で見せる感性のきらめきによって、自身が徐々に"普通"から外れていく様や一度成功したバンドマンの長く苦しい雌伏の時代の過酷さを実に興味深く描写している。
正直、「人間椅子」というバンドは大ヒットとはいかずとも長く売れ続けているバンドなんだとばかり思っていた。僕が知らないだけで彼らは正当な評価を受け続け、愛され続けている実力派バンドなのだと。1989年、TBS系列で放送されていた深夜番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称イカ天)に出演した折、その珍妙な見た目に反した圧倒的な演奏技術とライブパフォーマンスで審査員たちの度肝を抜いた彼らは、その後も確実にファンを獲得していき安定してバンド活動を行ってきた"成功者"なのだと思っていたのだ。だからこそ本著にて語られるイカ天ブームの過ぎ去った後の彼らの現実は予想だにしないものだった。メジャーデビューアルバムで才能が枯れ果て、最初のメジャーレーベルとの契約が打ち切られた後インディーズに移籍するも生活はままならず、バイト生活に身をやつす日々は失意と閉塞感に苛まれていく。客観的に見ればそれは悲壮感を伴う情景だった。
けれど文字を追っている間僕が抱いていた思いは、そのような身を切られるようなものではなく、一貫して"和嶋慎治"とは何なのだろう、という純粋な疑問だけだった。ページを捲るごとに面白い側面を見せていくこの人の現実の受け止め方はなんなのだろうと。本著「屈折くん」とは、ひとりの男が悟りにも似た境地に手を伸ばしていき、「メンヘラ」でもなく「こじらせ」でもない、"怪獣"となっていく心踊る冒険譚だった。
和嶋氏が"夜な夜なトルストイ的犠牲精神を発揮しようと"JRの高架下にいたホームレスに財布と煙草を施したシーンを抜粋する。
しばらく話をするうちに、おじさんは、よく大切なダンボールハウスを、たちの悪い酔っ払いに蹴っ飛ばされるのだとこぼした。(中略)ホームレスは昨日の僕であり、明日の僕であり、蹴飛ばした酔っ払いの明後日かもしれないのだ。みんなおんなじなのだ。もう何かしたくてたまらなくなり、僕はこれから吸う分の煙草を数本だけ残し、あとの全部をおじさんにあげた。悪いねえ、ちょっと待ってよ。おじさんはゴソゴソと隅を探すうちに、はい、と僕に何やら手渡した。それは、大事に取っておいたであろう、黄色く変色した日本酒のワンカップであった。僕にはそれが、おじさんの愛に輝く宝石のように思えたのだった。もったいなくて、ずっとそのワンカップは飲めなかった。
なんというか、そう、美しいのだ。その目に映るすべての事象が。文章というフィルターを通してもなお十分過ぎるくらいにその清廉さを保っている。和嶋氏の屈折の末に辿り着いた境地は、そうそう他人が真似できるものじゃない。ねじ曲がり、普通の人間の感性から背を向けて、ボロボロの風呂なしアパートで哲学書を読み漁りながら、ねずみと一緒に暮らしていた生活を僕は心底羨んでしまったのだ。それは彼が結果的に「美しく生きたい」という在り方を叶えてしまったからなのかもしれない。泣きながらも暗黒面を曝け出しその涙故に瑞々しく僕らに訴えかける和嶋慎治の「これでいい」と宣う在り様はどうしてこんなにも情緒に溢れているのだろう。
2012年の5月に、筋肉少女帯と共演することになった。(中略)ライブの前日は、蚕糸の森公園で練習した。どうやら筋肉少女帯のスタッフが近所に住んでいたようで、偶然にも僕の前を通りかかった。
「あれ、和嶋さん何してるんですか?」
「見ての通りギターの練習だよ」
彼は、あっけにとられたような顔をしていた。明日は大きな会場だったが、そこに出演する僕が部屋でギターを弾けなくて、こうして外で地べたに座って練習している。その落差が無性におかしくなり、いつもの屈折した樹の下で、僕は大笑いをした。
僕は彼のようになれるだろうか。彼のように諦念を抱きながら、自然体で在れることが。いや、たとえ彼のようにはなれずとも、こうべを垂れた先に咲く一輪の花に思わず頬を緩められるような、それを「美しい」と思える生を送りたい。
ライブ
THE SPELLBOUND TOUR 2022 at the 仙台Rensa
衝撃的な新譜発表から5ヶ月。待ちに待った彼らのライブに立ち会える瞬間がやってきた。想像通りとも言えるし、想像以上だったとも言える。圧倒的音楽体験、なんて、我ながら陳腐な表現だとは思う。でもあの場に居合わせた人間であれば、きっと同様の感慨を抱いたはずなのだ。中野雅之氏のきめ細やかなサウンドシーケンスは瞬時に音圧の織り成す宇宙空間へと姿を変える。福田洋子氏、大井一彌氏両名からなるツインドラムのブレイクは興奮の坩堝へと僕らを誘う。THE NOVEMBERSのライブよりも暴力性を抑え、純粋性を全面に出した小林祐介氏のボーカルは笑ってしまうくらいに透き通っていた。
中野氏が仙台でライブをするのはBOOM BOOM SATELIGHTSの最後の仙台公演からおよそ7年ぶりだったらしい。今度はブンサテとしてではなく、スペルバとして。名前は変わってしまったけれど、この日はブンサテのカバーを2曲も披露した。そしてサプライズとしてノベンバの新しいカバーも。「BACK ON MY FEET」が始まるやいなや前の列のひとりがブンサテのタオルを取り出すと、それに気づいた小林氏は指を差して顔を綻ばせる。なんだかずいぶん空気が暖かかったのを覚えている。こんなにも音の強度をひりつかせる場所で、それでも優しい空気が場内に醸成されていた。
誰かにとっては、待ちに待った瞬間で。誰かにとっては、とんでもなく圧倒される運命的な邂逅で。誰かにとっては、はじまりに過ぎなくて。けれど等しくポップで心豊かな時間が流れていた。みんなが手を振りかざしてリズムを刻み、会場がひとつの生き物のように同じ意志を持ち始める。アーティスティックな音圧でありながら、こんなにもオーディエンスを沸かせる音楽に、僕はこの先出会えることがあるんだろうか。あの時間に恋しくなったその時は、また彼らに会いに来るとしよう。
セットリスト
- Sayonara
- 名前を呼んで
- Nowhere
- はじまり
- なにもかも
- 君と僕のメロディ
- A DANCER ON THE PAINTED DESERT
- Hallelujah(THE NOVEMBERS)
- FOGBOUND(BOOM BOOM SATELIGHTS)
- FLOWER
- BACK ON MY FEET(BOOM BOOM SATELIGHTS)
- おやすみ
音源
I‘m Not Fine, Thank You. And You? / 54-71
2009年に活動を休止したハードコアバンド「54-71(ごじゅうよんのななじゅういち)」が最後に発表したアルバム。サブスクを漁っていたら久々に彼らの名前を見かけた。あいにく僕は初期のイメージで止まっていたものだから、懐かしい気持ちを胸に軽い気持ちで聴いた瞬間、非常に驚いてしまった。
「あれ、彼らってこんな感じだったっけ?」
地の底から響く重低音ベースに、鋭く攻撃的な面を表面化することに特化したギター、その中にあって空間を絶えず支配するドラム。無機質を突き詰め極限までザラつかせた音像に、かろうじて英語歌詞であることだけは伺えるラップ調のボーカルはライブでは無秩序な踊りを披露しながら、その他のバンドが生半可には真似できない存在感を強烈に印象づけていく。彼らはきっと唯一無二という陳腐な表現でしか語ることを許されない。
だからこそ、彼らの"遺作"となったこのアルバムに、僕は戸惑いを抱いたのかもしれない。デスボイスへと変貌し更に野生味を帯びたボーカルは"悪のカリスマ性"とも言うべき魅力を孕んでいた。そんなボーカルをバンドのフロントマンとして支えるべく、やけに気怠げに緩やかに響くギターと穏やかにそれらを支えるリズム隊がどっしりと腰を据えている。それでも生来のハードな音質錆び付かず一層内省を強いて来るようだ。なぜだか、胸を打たれてしまった。それは似てるようで似ていない、僕がうっすらと覚えていた「54-71」の音ではなかったからだ。
より実際的に、内側に潜り込むような音像は、外側へと暴力性を向けていた初期の彼らからすれば進化と言えるものなのだろうか。今の僕が彼らのライブを目にしたら、きっと馬鹿みたいに棒立ちしながら、彼らの饗宴から決して目を離さずにいたことだろう。
ただ、ひとつ言えるのは、僕はそんな彼らの変化を知ることなく日々を送り、こうして知らずに終わっていった彼らの過去に思いを馳せているということだけだ。
これ、面白すぎるので是非。
www.youtube.com
Just Kids.ep / ART-SCHOOL
彼らへの思いは、決して手放してはいけないもの。あの時の屈託も、涙も、空虚も、すべては健全な孤独のために。
sin / Golden Record
歪で禍々しく、おぞましい。衝動的で退廃的。曲と曲の繋ぎ目が断続的でこちらをひどく落ち着かなくさせる、美しさとは無縁の音の羅列。荒々しく、粗雑で、稚拙なリフレインを多用し、およそ洗練とは言い難い音像は僕の好みとは程遠いはずだ。なのに哀愁漂うこの感覚はなんだろう。叫び、笑い、泣き、また笑う。まるで心から溢れた感情をそのまま曝け出し、恥ずかしげもなくぶつけてくるかのようだ。覚えたての猿のように、禁じられた遊びを知ってしまった子どものように。ここは彼らにとっての遊び場なのかも知れない。ひとしきり遊んだおもちゃをすぐにポイッと捨てて、すぐさま別のおもちゃを手にする。そんな次々と移り変わり過ぎ去っていく光景が、無邪気な音楽の変容が僕の心をザワザワと掻きむしってくる。
しかし振り回され続けた僕は、それが一種の擬態だったことを知る。最終曲M-17「Sunny Morning」から、断続的だった曲群から一転してひどく滑らかにM-1「0」へと帰結していく。それまでの歪さが嘘だったかのように自然と再演が始まる。そしてまた誘うのだ。終わりの見えない、混沌とした無垢へと。
ところで、これを聴いていた頃僕はようやくチェンソーマンを読んでいたものだから、この物悲しい旋律を何度も重ね合わせてしまった。物語は佳境に入った。二人が戯れ合いながら雪合戦をする情景がダブった。大事な何かが音を立てて崩れ去る。そしてそんな二人を見て彼女は嗤うんだ。それでも彼の目には無垢な喜びが映っていてほしいと、そう願った。
なんとなく、満足感と不満足感が両立していたような月だったな、という思いに駆られています。ART-SCHOOL復活という個人的ビッグニュースの裏で、聴こうと思っていたものを予定通り消化できず、そのことに甘えてしまったような。今月は諸事情であまり活動的にはいけなさそうで、どうしたものかと。もちろん趣味でやっていることですから、焦ってもいいことなどないとわかってはいるものの、もどかしさが募るのは止められないですね。