Nothing is difficult to those who have the will.

エロゲとオルタナ。そんな感じ。ちょこちょこと書き綴っていこうと思います。

Illusion Is Mine 2023.4~9

カナリヤです。日常報告シリーズ音楽編。前回はこちら。

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僕の住む地域は夏は過ごしやすく冬も極端に寒いわけでもない、ということで年々移住者が増えていたりするわけですが、今年はどうしちゃったんでしょうね。9月に入ってもなおクーラーを切るタイミングがありませんよ。

 

luminous / ART-SCHOOL


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皮膚に隠れて普段は見えやしないが、僕の身体にはART-SCHOOLという水が、ART-SCHOOLという血が流れているんだろう。輸血のようにすんなりと馴染んでしまうのはそのためだ。瀉血してみたら面白いことになるかもしれない。グロテスクで自己愛主義的なその思考はそれはそれは醜悪なものだと我ながら思う。

音楽をファッション的に聴く。その認識から言えば僕は木下理樹というカスタマイズを永遠に施していく、ということになるのかもしれない。時代に流されず、取り残されながら。きっとこの先僕は親しい友人やSNS以外でおおっぴらに彼らを好きであると公言することはないだろう。音楽的嗜好に合致するということ以上に端的な事実として自らの恥部を晒すことに等しいのだ、という認識が勝るからだ。自己嫌悪に晒されながら無視できない彼らに息苦しさを覚えつつ、けれどその息苦しささえも愛おしく、これからも彼らに溺れていく。

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Xtalline:001 / Siren for Charlotte

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"遠泳"を感じさせる音楽に着目するレーベル「Siren for Charlotte」によるコンピレーション・アルバム。その第一弾。

以前に遅ればせながらMy Bloody Valentineというシューゲイザーの祖に陥落させられた際、僕はこのような記事を書いた。一文を引用する。

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この耽美なシューゲイザーの織り成す幻想世界の揺らぎは実に柔らかく、儚げで、瑞々しい。実体のないそれは心の内を泳ぐように聴く人によって無限に姿形を変えて様々な彩りを見せてくれるのだろう。

果たして空間的エフェクトやリヴァーヴ、囁くようなボーカルという構成だけがシューゲイザーなのだろうか。本質はそれを用いることで何を想起させるかだ。無骨で暴力的なリフに載せて運ばれる微かな歌声は僕らに何を訴えかけるのか。別世界の空間を構築しメッセージなく近づいてくる心象風景に僕らは何を写すのか。僕はきっと無意識ながらその本質に触れ、そして魅了されていた。感傷と無邪気さと、二度とは手にできない過去を携えて、「遠泳音楽 (Angelic Post-Shoegaze)」はシューゲイズという共通の言葉と共にどこまでも遠く、僕らを導いてくれる。

 

 

kimi wo omotte iru / kurayamisaka

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 SIGH (@sigh_xyz) / Xさんに先日教えていただいた、東京大井町出身のオルタナティヴ・ロックバンド。

本作において幾度となく登場する「私」がいずれにおいても同一人物であるかは不明だが、別離への感傷を抱いている点は同様だ。目を逸らし、ふざけたようにステップを踏む。明瞭な言葉にすることを惜しみ、胸に仕舞う。最後にはあんなに時間が余っていたのに、と思いの全てを伝えきれなかったことへの後悔の念さえ抱く「私」に対して、僕が抱くのは一種の清々しさだった。

いつかの僕にも確かにあったのだ。恐らくは劇中の「私」のように別れから目を逸らしつつも夕日を背にいつもの一日が終わり口惜しく思う気持ちと、それでも「また明日」と級友に軽く手を挙げてその日常が明日以降も続いていくのだと信じて疑わない日々が。跳ねるように歌う女性ボーカルはあまりにもクリアで思春期の普遍的なそれとして自然と受け止められてしまう。苛烈で駆け抜けるようなギターサウンドを軸としつつもメロウさを失わない彼らに泡(あぶく)のようなえも言われぬ感情を抱かずにはいられない。時間は有限だ。けれど無限だった時は確実にあったはずなのだ。現実だろうと理想であろうと、濾過したように切り取った情景の美しさがそこにまざまざと蘇るのだ。


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kenopsia / quannnic

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特定のバンドやアーティストに依らずジャンルの音楽を垂れ流していると、稀に傑出した存在感を放つ音楽に出会うことがある。サブスクへの感謝の念を強く抱く瞬間であり、同時にサブスクがなければその音楽と出会うには今よりも確実に時間を要していただろうとも思う。もしかしたら僕がその音楽に触れるその前に音源自体が埋もれてしまったかもしれない。けれど確かなことは、少なくとも彼は僕が知るタイミングや僕の杞憂など一切関係なく、その界隈において強烈なインパクトを残し続け、瞬く間にスターダムへと駆け上がるに違いないということだ。

「quannnic」はまさしくシューゲイズサウンドの最前線に位置する存在であり、繊細さを全面に押し出しつつ、内へ内へと潜っていくその拭いきれないダークな側面は素養のある人間であればきっと一曲、いやワンフレーズあるだけで心の琴線に触れることだろう。激しくも暗く沈み込むサウンドスケープ、多用する機械的エフェクトはその無感情な距離故に常に孤独感に苛まれ、決して叫ぶことのない訥々としたボーカルやアルバム全体で緩やかな速度を保つという徹底した構成、そして本人のナード感溢れる風貌と、僕らを魅了する要素をこれでもかというほど兼ね備えている。


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Life Imitates Life.(誰かの)人生が(誰かの)人生を模倣する。オリジナルのオスカー・ワイルドがロンドンの霧の美しさをターナーの絵画によって発見できたと語ったように、こうして誰かの人生への寄り添い方を美しく見出してくれるからこそ空っぽだった僕という誰かの人生が豊かになるのだと、そう思わずにはいられない。傍らに居てほしい音楽がまたひとつ僕の棚に収まった。

 

本作は2022年発表だが、今年8月になってシングルも発表している。これからのシューゲイザーの顔となるであろう彼の歌を僕は聴き続けることだろう。たとえ耳を傾けずとも、音楽を聴き続ける限り、彼の方へと吸い寄せられてしまうのだから。


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ATTA / Sigur Rós


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同僚が休みの日に映画観に行ってきたらしい。緩く言葉を交わしながら頭の片隅でそういえば最後に映画館で映画を観たのはいつだったか、なんてことを考えていた。最後にはそんな疑問も忘れていた。いつ行ったかなんて覚えてないなぁと考えるのを諦めてしまう程度には久しく映画館に足を運んでいないのだろう。そのくらい僕にとっては億劫な行為になってしまったのだ。結局のところ映画館に赴いたからには、およそ2時間は指定の席に座り続けなければならない。片時も画面から目を逸らすことなく。別に強制されているわけではないが、僕は目を逸らせない。映画を観るという目的を果たすために、目的に縛られている。

とどのつまり僕が望んでその場にいるはずなのに気付けば居心地の悪さを覚えてしまうのだから始末が悪い。最近はその時に観れずともしばらく経てば動画配信で試聴できてしまうから尚更躊躇してしまうのだろう…え、岸辺露伴の映画ってもうアマプラで配信されるんですか?公開して1年も経ってないですよね?ってな具合に。これも緩やかな感性の死なのだろうか。

 

同様なことが音楽に対しても起こっているのかもしれない。最近の僕は、自室で音楽をじっくり聴くことが少なくなってしまった。もちろん音楽を聴いていないわけではない。目を閉じ音楽にのみ注力し一音一音に身体を預ける行為がここ最近めっきり少なくなった、という意味だ。夏の暑さにやられてしまった影響はあるかもしれない。聴くにしても移動中だとか別の何かをしながらBGM代わりにしていたりと、きっと大多数の人間がそうしているだろう「聴き流す」ことで音楽を消化しようとするきらいがあるようだった。まぁこと現代社会において時間は有限であり他にやりたいことはいくらでもある。ながら聴きが可能な状況と判断すれば、手持ち無沙汰だと感じて他の行為に興じることは仕方ないことだとは思うのだ。

けれどSigur Rósシガー・ロス)はそれを許さない。10年ぶりのアルバムである本作を聴きながらいつものように雑踏を歩くと、雑音が彼らの音楽を阻害していくのがよく分かる。ノイキャンで多少打ち消してもこれなのだ。

これはダメだと瞬時に判断し音楽を止める。そのまま自宅にたどり着き椅子に腰掛けながら雑音のない限りなく無音に近い環境下で彼らの音に感覚を委ねる。多幸感に満たされていることを実感する。


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これまで様々なミュージシャンの数多くの楽曲を聴いてきた中で、スケールの大きさを曲にまるごと納めたような旋律には(僕自身のイメージの貧困さも多分に影響しているだろうけれど)まるで判で押したように「海」というイメージを連想させてきたように思う。母なる海、全身を柔らかく包み込むような優しいイメージと本作とでは微妙にズレた印象を与える。それは偏に本作全体で極限まで削ぎ落とされた最小限のドラムパートがそうさせているのではないか。


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単体であれば無機質に聴こえるドラムも、時に曲に寄り添うようなリズムで全体を穏やかに包み込み、時に殺伐とした冷たいリズムで激しく荒々しく僕らを引きずり込む。こと一定以上のスケールを要する曲に関して言えば、屋台骨足るドラムという存在はリズム隊という役割を飛び越えて「海」というものへの「郷愁」と「畏怖」そのものを担ってくれていたのではないか。だが、本作にはそれが圧倒的に不足している。荒れ狂う大海原も穏やかに揺らぐ波打際すら、この音像には抱けない。ここで描いているのは、きっと血の通う「生」ではないのだ。

そこにあるのはただただ荘厳で、聴くものを別世界へと導く硬質なサウンドスケープが在るだけだ。何人も侵すことの出来ない聖域とは、なんて美しいのだろう。そこには懐かしさもなく、恐怖もない。祈りとは、何かを願うことよりも、在り方そのものなのだと訴えかけてくるように。人の手には依らない自身の感性を超越したような象徴的な美しさに、僕は今圧倒されている。

 

 

Resistance & The Blessing / world's end girlfriend


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前田勝彦氏によるソロユニット「world's end girlfriend」が全てのライブ活動を停止し制作した7年ぶりの新作アルバム。多種多様なレイヤーで紡がれる本作は氏にとってアルバムという表現を極限まで追求した集大成とも言うべき作品。ただ綺麗なだけではなく、無垢なだけではなく、鋭利なだけではない。過去現在未来に渡って描かれる男女の人生の起伏。生と別れ、誕生と死、痛みと栄華、怒号と子守唄、驟雨と木漏れ日。まるで彼のこれまでの音楽家として得てきた経験全てと客観的な事実としての音楽的歴史とをジャンルを飛び越えて内面外面の両方を駆使して表現しているかのよう。情景を心に思い浮かべるのではなく、今そこにある景色に身を投じているような現実感を見せつけてくる。

先ほどSigur Rósシガー・ロス)の新譜を雑踏の中で聴くことを躊躇う音楽と僕は評したが、本作はむしろ雑踏の中で、日々の営みが紡がれる中でこそ聴きたい音楽だと感じた。茹だるような暑さの中を聴くのもいいだろう。灯が消え、音の消えた街に添えるのも悪くない。役割を終えた建造物が無残に破壊される様には寂寥感と新たなる未来への礎となった感謝の念を。すれ違った男女が手を繋ぎながらお互いにしか聞こえない距離で愛を囁く。笑顔と怒りと涙と締念が巡る輪廻の中で音楽と雑踏とが混ざり合い、そして、その全てが等価値となっていく。


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本作発売に先駆けて『144分間の暗闇爆音強制視聴会』と題しアルバム全編を映画館で上映するイベントが開催された。参加者の感想で特別気になったのは「目を閉じても構わない自由が嬉しかった」という一言だ。

Sigur Rósシガー・ロス)の序文で映画館への忌避感を語った身からすれば、緩やかな感性の死を嘆いていた自分の心が軽くなった気分だ。目を閉じてもなお「world's end girlfriend」の音と詩は失われない。むしろ能動的に目を閉じダイブさせることで思考は更に加速する。深化する。

それぞれの物語で彩った全35曲の大作は僕のこれまでのちっぽけな音楽感においても深い爪痕を残すだろう。昨今はアルバムと銘打っていても30分台の作品も珍しくはなくなった。集中して耳を傾けるにはちょうどいいサイズ感なのかもしれない。"捨て曲"などと蔑まれ"冗長だ"と断じられてしまうよりはよほどいい。そういうことなのかもしれない。けれど僕は聴きたい。壮大なスケールで描かれる数多のテーマを。制作者の様々な表情と遊び心とを覗かせる"冗長な"作品を。聴いた僕が答を出せるかどうかではなく、その思いに浸り続けていたい、という感覚を捨てきれない。インスタントに消化するのではなく、僕の血肉となって欲しいのだ。

「world's end girlfriend」は時流に抗う。レジスタンスを掲げ奏で続けるのだ。特定のジャンルへの嗜好や苦手意識、それら全てを灰燼に帰すが如く、遍く音楽好きへの祝福を奏で続けるために。


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前回のシリーズ更新から5ヶ月も経っていたとは。ここ数ヶ月は体調面の不調やストレスで音楽を聴くことすら億劫になっていましたが、これほど期間が空いていたとは思いも寄りませんでした。そんな中でも自分に刺さる音楽をこうして見出だせたことは非常に喜ばしいことです。

別に誰に強制されているわけでもありませんが、音楽を聴く日々を淡々と綴っていくというテーマのもと執筆していく本シリーズを更新していくことは、僕自身如何に余裕をもって日々を過ごせているかというバロメーターでもあるので、滞っているという事実は決して軽くはなく、ただそれを必要以上に重く考えすぎず、それでもある程度は受け止めるべきことなんだろうなぁと難しい塩梅を迫られているんだと実感しております。それでは。