Nothing is difficult to those who have the will.

エロゲとオルタナ。そんな感じ。ちょこちょこと書き綴っていこうと思います。

Illusion Is Mine 2022.11

カナリヤです。日常報告シリーズ音楽編。前回はこちら。

mywaymylove00.hatenablog.com

12月に入ってめっきり寒くなってきましたね。袖を通せばたちまちテンション爆上がり、シルエットが大変素敵なお気に入りのコートの出番がいよいよやってきました。

 

flying colours / florelle

avant-en-garde.bandcamp.com

デジタル・ドリームポップ・ブレイクコアバンド「florelle」による2ndアルバム。

心臓の鼓動に同期するブレイクコアはその走り続ける速度故に、胸中に去来する焦燥感は留まるところを知らない。それをドリームポップというパイ生地で柔らかく包むのだ。生来の凶悪さが消えるわけではない。むしろ息を潜めている分、その暴力性はいっそ拍車がかかっていると言っていいのかもしれない。それでもナイフを入れて少量をゆっくりと口に運ぶかのように丁寧に味わう、そんな優しさに満ちた余地が本作にはある。

目を閉じてみよう。そこには海が広がっているはずだ。キラキラと煌めく電子の海が。その激しくも穏やかな流れの中を僕は泳いでいる。ブレイクコアとドリームポップとが織り成すエレクトロな粒子の中に僕は確かに存在している。

 

I Didn't Mean To Haunt You / Quadeca


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「Quadeca」の名で知られるラッパー"Benjamin Lasky"による2ndアルバムにして、初の完全セルフ・プロデュースアルバム。

きれいだ、と思わず呟いてしまったのを今でも覚えている。この感覚はRadioheadの「How To Disappear Completely」を聴いた時の感覚と同種のものだと思う。

この感覚を信じるのであれば、本作との邂逅は紛うことなき未知との遭遇と言っても過言ではないのではないか。ロックやR&B、ヒップホップ、そしてエレクトロ、アンビエントといった多種多様なジャンルを内包する本作はどのジャンルにも属さない。様々な価値観・嗜好の壁を飛び越えて「Quadeca」という存在を脳内に刻み込んでくる。絶えず聴く者を圧倒しながらも静謐さを保ったまま終わりを迎えていく構成のサウンドプロダクションは死という根源が道端に転がっている様を思わせ、その純粋性故にアルバムを通して無形の美しさとは何かをこちらに問い掛けてくる。

この生と死の狭間という心地よさは、僕にとって同時に不安感をも抱かせてしまうように思う。ここ数年であらゆるジャンルの集合体とも言うべき存在ばかりに耳を傾けてしまい、そしてそのことにたまらなく幸福感を抱く自身がいるという純然たる事実は、これまで敬遠してきた起源的なサウンドを受け入れることにこの先ずっと苦労を伴うのだろうという漠然とした不安を抱え続けることを予感させるからだ。

一足飛びに現代音楽を味わい続けることは空っぽの自己を増長させるだけなのではないか?僕は心の底から音楽を愛し続けることが、この先できるのだろうか?とはいえ義務感を伴う嗜好へのアプローチは決して僕自身を幸福にはしないのだという危惧は絶えることはなく、いまだ有効な手段を取れないままでいる。

ぐらぐらする思考に晒されながら、それでも、今だけは酔いしれたいと思う。逃れようのない自然界の死に到達するまでの道程が穏やかな生と共に在ってくれること。それを祈り続けられる幸せに。

 

Les Misé blue / syrup16g


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2008年に解散しその後2014年に再結成したsyrup16gが5年ぶりに発表したフルアルバム。

タイトルの「Les Misé blue」を直訳するとフランス語で"青い賭け"を意味するが、19世紀に発表されたヴィクトル・ユゴーの原作「Les Misérables(レ・ミゼラブル)」がその由来だとすると和訳である「ああ無情」や「惨め」といった代表的なものだけでなく「極貧状態の人々」「社会の底辺の人々」といった直接的な意味合いを孕むらしく、直訳の表面的な爽快さに隠れた仄暗い揶揄はその遊び心を含めて尚更syrup16gらしいと言える。

初期に完成された彼らの音楽性は今作でも健在で、五十嵐隆氏の華のある声質に反響するギターの音色が非常にマッチしている。核心を突くかのような歌詞の連続に心がざわついてしまうのはスリーピース故の音の少なさならではのものだと思うし、全編に渡って伝えたいであろうメッセージ性を強くリスナーに感じさせる。彼らの音楽が決して万人受けする音楽ではないだろうことは容易に想像できるが、それでも彼らの新譜が発表されるやいなや多くのリスナーが好意的な反応を返したという事実はこの引力に引き寄せられる人々が思った以上に多いことを改めて実感させられるし、初期に発表された音源における曖昧な不安感から一貫している世界観に現実そのもののほうが追いついてしまったという無慈悲さを意識せざるを得ない。道筋の見えない情勢だからこそ、彼らの音楽はより一層凄みを増していくということなのだろう。


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今年活動を再開したART-SCHOOLと彼らは同様に社会への閉塞感への救いをテーマとする音楽性・歌詞性を取り上げられ両者はよく比較されているように思う。だからこそART-SCHOOLを愛好するリスナーはsyrup16gも愛好するだろうし、その逆もしかり。両者の立ち位置は多少の差異はあれど同等と言ってもいいかもしれない。

しかし少なくとも僕にとって両者は明確に区分されていると言っていい。ART-SCHOOLが救いのない世界を共に歩んでくれる「良き隣人」ならば、syrup16gはすぐ後ろに佇みこちらを覗き込んでくる背後霊のような存在だ。フラフラと歩き続ける僕のすぐ後ろにピッタリくっついては離れない、そして振り向けばそこには自分そっくりの生気のない表情をこちらに向けているだろうからこそ、容易に振り返ることができない。守るのではなく、曝け出す。ART-SCHOOLが茨の中にひっそりと存在するシェルターであるなら、syrup16gはわずかな光源のもと眺める自身の姿見だろうか。

syrup16gのメロディは例えるなら、朝目覚めてまどろみの中でわずかに空気を奮わせながら「死にたい」と漏れ出る言葉と、自然発生したそれに引っ張られることを恐れて「まぁ嘘だけどさ」と反射的に嘯くことで夢と現実とのバランスを取ることに似ている。エロティックかつ軽やかで、上擦ったような五十嵐隆氏の歌声はいっそ不謹慎にも響く笑えないほどふざけた歌詞というフィルターを通して柔らかくポップにこの世の絶望を謳い、僕の心と身体にはじめからそこにあったかのようにきれいに収まっていく。

syrup16gが放つ渾身の5年ぶりの新譜は、あいも変わらず良い意味でも悪い意味でもいつも通りの形を維持した彼らで、分かってはいたものの思った以上に、クる。砂糖菓子のように甘ったるい名称とは裏腹に辛い現実を容赦なく想起させる剥き出しの彼らの音楽は、用法用量を守って正しく服用していくことが何より肝要なのだと思い知る。ちなみに聴かないという選択肢なんて、そんなもの最初からあるわけがない。劇薬だと分かっていても明確に言葉にしてしまうことで、この地獄のような現実が自身の望むものではないことを僕自身が忘れてしまわないためにも。

 

 

 

今月はなかなかに密度の濃い月だったように思います。いよいよ意識せざるをえない年間ランキングがここにきて荒れに荒れてきているのを実感しております。さーて、どうしようかな。