Nothing is difficult to those who have the will.

エロゲとオルタナ。そんな感じ。ちょこちょこと書き綴っていこうと思います。

Misstopia

8月から9月まで2ヶ月もの期間、僕にとってはおおよそ何の意味も見出だせない時間を過ごし、ようやくその余波から抜けだそうとしている。

ここで詳述するつもりはないが、自身の自由と尊厳を甚だしく踏みにじられる行為に短くない期間付き合わされたあげく、精神をズタズタにされてしまったことだけは間違いない。空虚さの漂う日々、とはまさしくこのことを言うのだろう。少なくともあの時の僕は「これは僕にとって何の益もない」と信じ込むことでどうにか一日一日を過ごしていた気がする。

 

彼らには彼らの正しさがあり、それはまさしく大多数にとっての当然の行為なのだとしても、それは僕の望むことではない。僕という一個の人間は彼らの正しさに与することが自身を汚されることなのだと信じて疑わなかった。

誰かが僕にこう囁く。「○○あるべきだ」「△△しない・××と思わないのはおかしい」「□□であってほしい」それは善意で彩られた言葉たちだった。誰も彼も僕の幸福を願って綴られたものであることは間違いない。でもそれでは僕は幸せにはなれないのだ。僕に向けられたものなのだとしても、それが僕にとっては鋭利なナイフにしか映らないことは気づきやしない。誰かにとっての「僕」はそれで幸せになれるのかもしれないが、僕の思う「僕」はそれでは幸福ではいられない。誰に憚ることなく、周囲を慮ることなく、僕は僕の幸せのみを追求しようと心に決めた。

それはきっと不器用な生き方だ。およそ真っ当な人間の生きる道ではない。もっとやりようはある。端から見てそれを一般的な幸福に当て嵌める人はそうはいないはずだし、自分からそう生きようと考える人もまたいない。もちろんそれは僕だって同じだ。最初から不器用に生きたい人間なんているものか。享受したかった。僕もそこにいきたかった。皆と一緒にいきたかった。でも出来なかったのだ。であるからこそそうではない生き方を模索するほかない。

けれど紆余曲折を経た今の僕はこの生き方を心底気に入っていて、他人には足りないものだらけの生活だとしても、それは僕が手に入れた、たどり着いた、僕だけの大切なものとなった。なんて僕らしいのだろう。まさしく僕そのものじゃないかと、そう思えることはこんなにも鮮やかな日々なのだと心が踊った。嬉しかった。嬉しかったのだ。そうやって日々を自分らしく過ごしていけたらそれでいい。他には何もいらないと、それだけの単純な話のはずなのに、どうやら彼らはそうとは受け取ってくれないらしい。

自身が己の不器用さを許容したとしても、他者が同じようにそれを許容してくれるわけではない。ましてや不器用さを正そうともしないその姿勢は、いっそ己の不器用さに胡座をかいているように映るのだろう。

そのことが、ひどく苦しい。僕は僕の弱さを認めた。そしてその弱さを抱えたまま生きていくことを決めたのだ。でもどうやらそれではダメらしい。なぜなら弱さとは忌避されるべきものだからだ。たとえ弱さを捨て切れないのだとしても、歯を食いしばって日々を懸命に生きねばならないのだという。

そう在れないのは僕の瑕疵だ。自分が正しくないからこそそうできない、そうはなりたくないと思ってしまうことに罪悪感や無力感や、疎外感を抱いてしまうのだ。僕は結局目を背けているだけなのだと言いたげに自分に価値を見出だせなくなる。暗がりであんなにきれいに思えたガラス玉が陽の射す場所に出た途端、見えていなかった傷が目に付くかのように。

強く在れる人が羨ましい。僕の強さとは、弱さを毛布で包むことで他人からも自分からも見えないようにすることしかないのだと思い知らされる。だからこうして揺れる。崩れていく。消えてしまう。

茨の道なのだと、感じてはいた。理解はされないし自分が幸せなのだと宣ってもその通りには受け取ってはくれず、彼らの信じるところの幸福の形に収めようとしてくるのは分かっていたことなのだ。

 

過去の辛い時に縋るように聴いていた音楽を、あれほど苦しかった僕は聴いていなかった。少なくとも今の僕にとっての音楽とは救済の形をしてはいないのだ。ここで安易に聴いてしまうことはあの頃の自分と今の僕が同質になってしまう。それは耐え難いことだ。こうありたい自分を形取るためだけに僕は音楽を聴いていたい。音楽のない日々に憂いを覚えながらも今ではない、と、そう思えたことだけは僕にとっては軸というべきものが変わらず存在してくれているのだと思った。

強さが欲しい。そして何よりも速さが欲しい。些事を美しい火で燃やせてしまえるだけの。

僕は今ようやく、音楽に触れている。


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