Nothing is difficult to those who have the will.

エロゲとオルタナ。そんな感じ。ちょこちょこと書き綴っていこうと思います。

エロゲと音楽が好きなんです。遅ればせながら、OVERDRIVE最終作「MUSICUS!」への屈託を書いてみる。


OVERDRIVE 最終作「MUSICUS!」CM映像

カナリヤです。本日はオバイブことOVERDRIVEの最終作として2019年に発売された「MUSICUS!」の感想記事です。なにかと話題になった本作ですが長らく放置していたものをこの度ようやくプレイすることと相成りました。ライターは「CARNIVAL」「SWAN SONG」などで熱狂的なファンを生み出した瀬戸口廉也氏。ゲームという媒体で楽しむのは唐辺葉介名義で発表した「暗い部屋」以来ですから何年ぶりでしょうか。18禁エロゲで考えても「キラ☆キラ」以来ですから相当経ってますね。軽いタッチでありながらキャラクターの内面に迫りすぎるほどの生々しい描写が特徴的な氏の文体。案の定精神ゴリゴリに削ってくるのが分かっていたのでここまで放置していたんですけどね。久々の瀬戸口テイストに夢中になりながら酔いしれる一方で、自身の感性と作品世界の描写との齟齬に苦しむことにもなりました。

 

それでは始めていきます。

※本記事は「MUSICUS!」本編のネタバレを含みます。ご了承ください。

 

 

「MUSICUS!」への評価

本作は同じブランドから発売された「キラ☆キラ」「DEARDROPS」と作品世界を共有したシリーズものであり、同様に「バンド」を題材としています。「キラ☆キラ」がバンドを中心とした環境に目を向けたものだった一方で「DEARDROPS」はバンドの人間関係を扱っていましたが、本作はそこから更に踏み込んでバンドそのものをより深く描くようになっています。個人的に過去作はバンドという要素が添え物になっているようにも感じられたため、本作で顕著になった硬派に音作りに追求していく描写やバンドの地道な下積み時代の細かな描写は綿密な取材を窺わせてくれる非常に好ましいものとなっていました。

そもそも「バンド」+「エロゲ」という組み合わせを成立させられたのは現役のロックバンド「milktub」のミュージシャンであるbamboo氏がブランド代表を務めるが故の専売特許のようなものではありますが、本来であればエロゲの購買層にはあまり刺さらないのではないかと思われるバンド要素を「キラ☆キラ」「DEARDROPS」では比較的マイルドに描いてきました。結果的に予想に反して大きな反響を得られたことでバンドという題材を突き詰めていくことへの勝算を確信したため本作のような構成に繋がっていったのではないでしょうか。まぁ案外もうブランド解散なんだから好きにやったれ!的感覚だったのかもしれませんが。

ライブハウス出演時の切実なノルマや決してメジャーとは言えないロックという世界においては比較的認知されているバンドであってもアルバイト生活を余儀なくされる実態など、過去作でもバンドマンの困窮さは幾分語られてはいたもののここまでまざまざと描いたことはありませんでした。そして「キラ☆キラ」以来、シリーズ待望の復帰となる瀬戸口廉也氏の巧みな心理描写かつ明朗でありながらも真に迫る文体がそのアングラな世界観をより強調しています。

また本作ではシリーズにおいて原画を担当してきた片倉信二氏、藤丸氏の両名からすめらぎ琥珀氏に交代しましたが、これが見事にハマっていたと思います。確かに両名の絵柄はとても可愛らしく、コメディタッチな雰囲気はそのままシリーズ作品の持つポップな印象に直結していたとは思うのです。ですがシリアスな場面、特にライブシーンにおいてはそういった特徴が足を引っ張っているように感じていたのも事実です。そして何よりすめらぎ琥珀氏によるエロティックな艶やかさはとにかく映えます。ギターを爪弾く対馬馨、ベースを自在に奏でるめぐる、タイトなドラミングを思わせる風雅、三日月がマイクスタンドを両手で握りしめながら「いきます」と小さく呟きそして始まるライブシーンは非常にゾクゾクした印象を与えてくれるのです。金田は好きにしろ。個人的に等身高めのキャラクターが好きというのもありますが、少なくとも今作においては序盤から続くヴィヴィッドな展開にとっても必要不可欠なものだったと思います。

 

音楽に求めるは絶対性

さて、ここからは益体もない愚痴である。どこまでいっても個人的嗜好の話でしかない。

ロックに興味など抱かずいっそ忌避すらしていた馨をライブのたった一曲で虜にしロックという世界に巻き込んでしまった、ロックバンド「花鳥風月」のリーダー花井是清は音楽というものの曖昧さ、不確かさを終始語りながら誰に看取られることもなくあっけなく自ら命を絶った。おそらくは人並み以上に音楽に真摯に向き合い決して少なくない人々を魅了し続けた彼がなぜこの世を去らねばならなかったのか。馨は自分のまだ知らないロックという不可思議なものの正体、その行き着く先、花井是清が何を見て、何に絶望したのかを確かめるべく音楽の世界に足を踏み入れる。

「音楽はただの音の振動だ。音楽の感動はまやかしだ。ミュージシャンのやってることは全部クソだ」

これは対馬馨と、その周囲にも少なからず影響を与えた花井是清の発言であり、作中でも事あるごとに登場する言葉だ。


www.youtube.com

それは音楽に対してよく言われる商業主義に対する批判だろうし、音ではなくストーリーをこそ求めてしまいがちな大衆への批判だろうし、是清の言うように単なる音の振動でしかない欺瞞の集合体に心を動かされてしまう、自身を含めた音楽に携わるすべての人間に対しての皮肉なのだろう。そしてそれをわかっていてもなお求めてしまう、必要だと宣う音楽狂いの愛すべき愚か者たちへの呆れ混じりの賛美なのだ。だからこそ僕はおそらくはTRUEルートに該当する三日月ルートに対して明確な違和感を抱かずにはいられないのだろう。それは正確には作品に対して、ではない。この作品が内包している根幹、前提として提示されている要素を僕は決して容認することは出来ないのだ。愛すべき愚か者として、それだけは絶対に。

 

 

"花井三日月"は天才か?


www.youtube.com

作中でその天才性を誰もが認めてやまないのが花井是清の妹であり馨が結成したロックバンド「Dr.Flower」でボーカルを担当する花井三日月だ。先天性色素欠乏症(アルビノ)であるが故の儚さと美しく愛らしい容姿に彩られた彼女は妖精に例えられる神秘性を有しているのと同時にその歌声はパフォーマンスの不安定さを指摘されはするもののクオリティに関しては他の追随を許さない圧倒的な表現力を備えたボーカリストとして称賛されている。馨はもちろんのこと、登場する人間は軒並み彼女を褒め称え、そう思うことが作中世界においては当たり前であるかのように、まるで空気のように漂っているのだ。

これが小説であったのならどんなに良かっただろう。きっと僕は瀬戸口廉也の鮮やかなテキストに魅了されながら花井三日月というボーカリストの才能に微塵も違和感を覚えることなくそれを受け入れてしまうのだ。あやふやな、実体を持たない幻影を妄想し自分の中で定義づける。これが才能ある人間なのだと。そうして流れるように紡がれる物語に迷いなく没頭していったはずだ。

だがこれはエロゲだ。テキストだけではない様々な要素――絵、音声、効果音、背景、演出、UI、そして音楽――が複雑に絡み合って成立するひとつの作品なのだ。読者の想像のみで賄うのではなく時に目の前にある何かを浮き彫りにしてしまうからこそ、その鮮明さを武器としてきたエロゲという媒体だからこそ、何年経っても僕は魅了され続け、こうして三日月という存在を認められずにいる。心に届くことがない彼女の声は決して"特別"なんかではないと思わずにはいられないのだ。

僕は音楽が好きだ。人に誇れるほどの優れた耳を持っているとはまったくもって思わないが、少なくとも僕自身が好きになった音楽を僕は誇りに思っている。それは馨がはじめて「花鳥風月」の楽曲「ぐらぐら」を聴いたときに抱いた感慨と同様のものであるはずだからだ。あの甘美な時間が作中でも確かに存在することが描写されているからこそ僕は妥協なんてできやしない。あれは誰にだって、何に対してだって味わえるものではないはずなのだ。

三日月ルートにおいて彼女は自身の熱狂的なファンから硫酸を浴びせられたことによりその美しい顔を傷つけられてしまう。目の前のファンのために歌い続けてきた彼女はよりにもよってそのファン自身から傷つけられたことをきっかけに心を病み、歌うことそのものができなくなってしまうのだ。

登場人物に訪れた突然の悲劇に対して僕は心を痛める一方でホッと息をつき溜飲の下がる思いを抱いている自分がいることにも気づいてしまった。これで花井三日月というボーカリストが死んでくれたと思ったからだ。死ぬことで彼女は伝説になる。死ぬことで彼女の評価はそこで定まる。死んだ人間を悪く言う必要なんて、死人に鞭打つ必要なんてないだろう? 三日月への複雑な感情がたとえ僕の心の中だけの葛藤でしかなかったのだとしても、僕はこれ以上悪者になんてなりたくはなかったのだ。

「ロックンロールという言葉はね、きみが勇気をもって暗闇で顔をあげるとき、いつもそこにあるものの名前なのさ」

だからだろう、その後に彼女が歌声と歌うことの意味を取り戻したこともお話の意図ほどには受け止めきることができなかったのは。

――『STAR GENERATION』の噂は今でもあちこちで語られている。だけれど、僕はそのライブを生で見るのはこれが初めてだ。それを、もし、つまらないと感じてしまったらどうすればいいのか?

もし、つまらないと感じてしまったら、本当にどうすればいいんだろう。その答えが提示されることは最後までなかった。

 

まだ見ぬ音楽を求めて

僕は本作において澄ルートが最も好きだ。いや、澄ルートと呼ぶのはいささか語弊があるのかもしれない。しかし相応しい名称が見出だせないためひとまずそう呼称することにする。

このルートにおいて馨は三日月にソロデビューの提案を受けるよう促し、結果彼女は「Dr.Flower」を脱退する。元々活動が停滞気味だったバンドは彼女を欠いたことで綻びが生まれ始め息詰まりを覚えるようになると、やがてバンドという体裁を保つことに意味を感じなくなってしまった馨はバンドの解散を決断する。

その後の彼の生活は客観的に見れば坂を転がり落ちるかのような悲劇性を有しているのだろう。安寧は過ぎ去り荒れ果てることはなくともひたすら空虚さが漂う生活。失ったものを取り戻そうと足掻くような必死さすら垣間見られず、ともすればそれは喪失感を助長するようにも映るのかもしれない。

でも僕はそれを心底楽しく見ていたのだ。音楽への探究心を強く持っていたことが度々語られていた通り、馨は解散を期に「Dr.Flower」のバンドイメージとは趣の異なる曲作りをスタートさせていたからだ。固定のメンバーを設けず楽器構成もその都度変えていく自由なコンセプトのもと曲作りに没頭し、ライブに際してはその時その時に必要な人員を募ることで音楽活動を続けていく馨はこの上なく充実しているように見えた。作中で登場するキーボードとバイオリンを加えてシックな印象にしてみたというユニットによる演奏を僕は本当に聴いてみたかった。「Dr.Flower」或いは花井三日月という存在に縛られず制約を取っ払った彼の描く音像世界に触れてみたいと思ったのだ。作中ではその音楽が一切奏でられないからこそ、その渇望は妄執のように僕の心に容易く侵入してくる。

 


www.youtube.com

BECKという作品がある。原作はハロルド作石による漫画であり本作と同様にバンドをテーマとしたもので後にアニメ化、実写映画化もされている。主人公であるコユキはボーカリストとして天性の才能を有しておりその才能は世界の著名なミュージシャンを唸らせるほどのものだ。原作ではコユキが歌い出すと聴衆は皆驚き静まり返る。大袈裟な演出だとは思うが、演奏シーンでの巧みなコマ割りや表情がそこに真実味を与えてくれる。コユキはそれだけのモノを持ってるのだという一種のバフがかかるのだ。けれどこれは音というものを表現することができない漫画ならではの手法だとも言える。

付け加えると実写映画では、原作者の意向によりコユキのボーカルパートは別の音に挿げ替えられる、あるいは無音で処理されてはっきりと聴くことはできなくなっている。この「歌を描かない」という演出は公開当時に賛否両論を巻き起こしたが個人的にこれは非常に理にかなった判断だったと思っている。"天性の歌声"などという大仰な謳い文句を据えるに相応しいボーカリストが果たして現実に存在するのだろうか。素晴らしいボーカリストならば何人だっているだろう。けれどそれはあくまでも個人的嗜好の範疇でしかないと思う。聴いた人間すべてを魅了するような想像の中の天才に誰であろうと敵わないのは自明の理なのだから。

対馬馨の音楽は徹底して描写を排しているからこそ天才性という存在するかも定かではないものを期待してしまうのだろうし、暗い海で沈殿する泥のように僕の心にいつまでも纏わりついたのだ。

 

その後に描かれる澄との同棲生活でも馨への期待感が揺らぐことはなかった。曲作りのペースが落ちようとも、実家の母に金の無心をする落ちぶれた描写がなされようとも、音楽やその他の雑事に心が動かなくなっていることを実感しながらも、アフリカの民族楽器カリンバをいじっているという描写だけで僕は分かりやすく心が踊った。

「STAR GENERATION」のボーカルであり馨の所属するインディーレーベル「STAR RECORD」の社長を務める八木原は、完成まで数ヶ月を要した馨の音源を聴いてこう言う。「おれにはこの曲の良さが分からない」と。どんどん難解になっていく馨の音楽を理解できない。もしかしたら良さがあるのかもしれないが、おれにはわからないのだと。馨に遠慮するように、けれど明確に馨の音楽にNOを突きつける八木原に対して落胆を隠せず自身の音楽に対して、そして音楽というものに締念を抱く馨だったが、僕にとってはそれすらも関係がなかった。僕の心すら動かせなかった「STAR GENERATION」から発せられた言葉は文字通り何の意味もなかった。キミの音楽を聴かせてほしい。それだけが僕の心に募ったのだ。

 

そして澄が死んだ。彼女は社会性を失った馨から彼との間にできた新しい命を歓迎されず堕胎を勧められる。家族を持てなかった彼女の希望の象徴は素気なく否定され打ちのめされるも馨という存在に縋るほか彼女の生活が成り立つ術はなく、愛されてなどおらず、互いに依存していただけだと気づいていながら理解すらできない馨の音楽を愛すことのみに救いを覚えていた彼女は堕胎することを受け入れる。しかしその直後、よりにもよってその馨の音楽によって、彼にとっては不出来なものでしかなかった音楽によって不幸にもその若い命を散らしたのだ。それはどうしようもない悲劇だろう。悲劇以外の呼び方すらない。


www.youtube.com

「ぐらぐら」が流れる。馨ははじめての感情に激しく動揺し長らく何にも心を動かすことがなかった自身に赤々とした火が灯っていることを実感する。それは意味は違えど「花鳥風月」に心を震わされたあの時の彼だった。結果はどうあれ「音楽」によって生み出された衝撃は馨をまた「音楽」へと駆り立てていく。幸か不幸かは関係がない。その衝動の大きさこそが彼にとってはすべてだったのだ。

「no title」というED曲とクレジットが流れていくなかで、背景には馨がこちらに背を向けてひたすらPCに向き合い曲作りに没頭していく姿が映し出される。ふと立ち上がってはどこかへ行き、しばらくするとまたPCに向き合う。その姿は虚ろで顔を見ずとも生気が失われているだろうことは想像に難くない。延々とそれが繰り返され時に乱れる映像は耳障りなノイズを伴う物哀しい曲調も相まって実に不気味で奇怪な印象を与えてくる。これは妄執だ。音楽に囚われるうちに音楽以外のすべてを失い音楽というものを探求するほかに意味を見出だせなくなった歪な男の哀れな一生だ。


www.youtube.com

そうしてついぞ彼の音楽を聴くことなく僕は作品を終えてしまった。残念だと素直に思う一方で、これで彼は永遠の存在になったとも言えるのではないか。花井是清は、そして妹である三日月はあくまで一時ではあったが、死という事象を孕むことで自身の音楽の絶対性を感じさせるに至った。けれど死ぬことが描かれないことが確定している馨の音楽はその絶対性を保ち続け永遠に手の届かない存在として天才性という可能性を帯びたまま記憶の中に残り続けるのだと思う。彼が音楽と向き合い、音楽に逃げ続ける限り。それがたとえ誰に聴かれることのないものだとしても。

 

終わりに

エロゲと音楽は今現在の僕の嗜好の最たるものであることは言うまでもなく、それは嗜好だからこそ一切の妥協はありません。良いか悪いか、面白いか面白くないか。言葉の上では優しく味わっていたとしてもその実残酷なまでに容赦なく淡々と評価を下していくことで僕の生活は彩りを増していってると思うのです。本作が単なるエロゲなら、単なる音楽なら、いつものように僕は簡単に判断を下していたのでしょう。そういう意味では本作の楽しみ方を歪めてしまったのかもしれません。ですがこうして抱いてしまった齟齬に苦しんで感想を書いている自分は存分に作品を堪能したと思うし、これまでにない屈託を得られたことはまさしく僥倖と言えるものです。こうして作品に思いを馳せられることは実に楽しい。それだけは間違いありません。

最後に、エロゲとバンドの融合というまるで僕のために拵えたかと勘違いしてしまうような作品を作り続け、走り切ってくれたOVERDRIVEというブランドに精一杯の賞賛を。

そしてそんな無茶苦茶なOVERDRIVEの企画に応える形で人間性を美しくも醜く描き作品をこんなにも魅力あるものに仕上げてくれた瀬戸口廉也氏に惜しみない感謝を。

 

エロゲと音楽って最高だな!!