母のガンが発覚したのは今から四年と半年前のことになる。
父曰く、風邪のような症状がずっと続いていたらしいが普段から体調を崩しがちだった母とそして僕を含めた周囲はそのことをあまり大事に考えはしなかった。
それから数週間後、母は自宅でトイレに行こうと席を立ちいくらか歩いたところで突然倒れ込んだ。気づいた父に抱き起こされた母は息を絶え絶えに「助けて」と弱々しく零す。その物言いに尋常ではないものを感じた父は急いで母を近所の診療所へと運んだ。レントゲンを取ったところで大学病院への紹介状を手渡されそこで精密検査を受けることになった。
長い検査の後に告示された病名は、肺線ガン。いわゆるステージ4という既に他のところにも転移してしまっている状態でおおよそ完治は望めず、この時点で五年生存率はわずかに20%程度だったという。
母の入院と病名と余命幾ばくもないことを父から突然聞かされた僕は分かりやすく言葉を失った。意味が分からなかった。これから数年で母が死ぬ。それは現実とは程遠い何かに思われた。
当時親戚との旅行を楽しみにしていた両親は「とてもそんな気になれない」と急遽キャンセル。主治医は「行った方がいい」と強く勧めていたらしいが、母の気持ちを何よりも尊重した。今にして思えば無理やりにでも行かせるべきだった。でもそのときはそれが一番良い選択だと思ったのだ。
そこから長い長い治療が始まった。少しでも延命できるように。ガンの悪化をせき止められるように。母と少しでも長く一緒に居られるように、ありとあらゆる治療を施した。
父は、必死だった。定年退職してから数年。毎朝母と散歩しては行きつけの喫茶店でモーニングを食べることが日課だったという父はこれからも伴侶とのささやかで穏やかな暮らしが続いていくものだとばかり考えていたのだろう。「オレが治してやるんだ」と言わんばかりに様々な資料・文献を読み漁り母を救う手段を模索し続けていた。
父は母よりも7つ年上だった。いつだったか「死ぬのはオレが先だとばかり思っていた」と、ポツリと呟いた。
しばらくたっての定期検査の折、頭蓋骨と脳の間にある髄膜という部位にもガンが転移していることが分かりその箇所に放射線治療を施すことになった。治療後しばらくして母の軽くウェーブのかかった黒く愛らしい髪はごっそりと抜けてしまった。事前にそうなる可能性は聞かされてはいたものの改めて自身の身に起こったことに母はショックを受けていた。
僕はそんな母にウイッグをプレゼントした。茶色がかったセミロングくらいのもの。注文したものが届いたとき少し若すぎるかな?と不安になったものの、母は気に入ってくれたようで嬉しそうにつけていたが、それを見た父は母に抱くイメージとのギャップからか笑いを堪えることができず、そんな父を見て母は憮然としていた。
しばらくして別のウイッグを買ってあげた。以前の母の髪に近い色で年相応のものだ。今回はイメージに合ったのか、それとも前回笑いすぎたことを反省したのか。恐る恐るウイッグをつけた母を父は「似合ってる」と一言だけ述べた。そんな父の態度に満更でもなさそうな表情を浮かべた後ウイッグの位置を何度も調整する母はとても可愛らしかった。
この頃になると、僕らはよく笑い合っていた。闘病により体力は落ちていたものの治療は順調。そしてまったく辛そうな顔を見せない母の姿にこのまま小康状態がいつまでも続いていくものだと思っていたのだろう。ステージ4という言葉も五年生存率という言葉もすっかり頭から抜け落ちてしまった。慣れてしまっていた。後になって、当時の母が自身の病状を日々つけていたノートを見つけたときは呑気に考えていた自分に心底腹が立ってしまった。そこには終わりの見えない治療への不安や辛さ、症状が進み、以前はできていたことができなくなっていく悲しみが淡々と綴られていた。僕は何も見えていなかったのだ。
見えていなかった、というよりも見ようとしていなかったのだろう。母と半年に一度程度会っていた親戚は会う度に小さく弱々しくなっていく母を見て胸が締め付けられる思いに駆られたという。それよりも近しい距離にいた僕は近いが故に微細な変化に気づけなかった?いや単に目を背けていただけだ。スロープのようになだらかな下り坂だったとしても症状は確実に進行していったのだ。愚かにも現実を直視していなかっただけなのだ。
今年に入ってから母の身体には異常が散見されるようになった。白内障、メニエル病、会話のレスポンスが遅くなったり、とんちんかんな返答をしてきたりすることも増えた。ガンの治療以外にも病院に行く機会が増えてしまった母はウンザリしているようだった。近視だった母は白内障の手術後、視力が幾分回復しそれまで使っていたメガネでは度が合わないとぼやいていた。治療が一段落したら父に新しいメガネをおねだりするんだと笑っていた。
ある日、母は日課としていた父との散歩中に息切れを感じたという。十数歩歩いただけでゼーゼーと息が苦しいのだと。病院通いが続き、体力が落ちていたからだろう。近々ある定期検診で診てもらおうと結論づけてその日は終わった。
定期検診の後、母は入院することになった。レントゲンで見る母の肺は真っ白に染まっていた。肺炎だった。肺の中の肺胞という部位が炎症を起こした結果、酸素の吸入がままならなくなり、自力での呼吸ができなくなってしまう病気だ。原因はカビによるものだった。健常であるならなんてことはないそれは母のように体力のない人間にはとても厄介なものなのだという。その日のうちに病院のベッドに寝かされ酸素吸入器をつけられた母は程なくして意識を失い、数日後には40℃近い熱を出し危篤状態に陥った。あっという間の出来事だった。
早朝、病院から呼び出された父と兄、そして僕は、担当医から母の体力が明日まで保たないかもしれない、保っても一週間程度だと伝えられた。その日から僕たちは病院で24時間体制で看病することになった。母は苦しさのあまり無意識に酸素吸入器を外してしまう。その度に母の命は削られていく。看護師の数にも限界がある。常に母を看ていられるわけではない。母の命を少しでも繋ぎ止めたかった。
母はよくもがいた。うめき声をあげた。鎮痛剤と鎮静剤の効果が切れると、苦しさから煩わしい酸素吸入器を外そうと手を伸ばす。それを外したところで苦しさはなくなりはしない。それでも意識のない母はその行為を何度も何度も繰り返す。力は弱く、止めることは簡単だったが目を離した瞬間にはまた外そうとするものだから気が抜けなかった。止める度に母は意識のないなかで「もうやめて」「なんで止めるの」と口にする。その度に僕らは「ごめん」としか言えなかった。
夕方になると、遠く離れた地で暮らす姉が駆けつけた。同性故かひと一倍母に懐いていた彼女は突然の一報にうろたえ戸惑い母の側に居たがった。けれど幼い子供二人の母でもある姉は周囲の説得の末「ごめん、お願いね」と、僕らに言い残して自宅へと帰っていった。目を赤く腫らした彼女はそれでも気丈に振る舞っていた。
交代制とはいえ慣れない24時間体制での看病が何日も続くと疲労感が目立ってきた。仮眠してもまともに眠れるわけもなく、注意力も散漫になっていた僕はみすみす母が酸素吸入器を外すのを見逃してしまった。瞬間、頭に血が上った。自分になのか。母になのか。母の肩を両手でむりくり押さえ付け、怒りにまかせて怒鳴ってしまった。それを外すなって言ってるだろ。何度言えば分かる。誰のために頑張ってると思ってるんだ。
この時僕は初めて母の身体の小ささを思い知った。あまりにも小さかった。まるで子供だった。こんなにも小さくなっていたのかと愕然とした。元々小柄な人ではあった。まだガンになる前、日がな寝っ転がって映画やドラマを観るのが何よりも好きだった母は年々太ってしまい、それまで着られた服がもう入らないと嘆いていた。僕はそんな母に何着か見繕ってあげた。誕生日でも母の日でもなく気まぐれにプレゼントした服はどれも安物だった。たまたまセール中だったのが目に付いただけだった。それでも母は大層喜び会う度に着てくれていた。あの服は今着たらブカブカできっと似合いやしないだろう。
「痛い」と母は言う。押さえ付けていた手を慌てて離した途端、後悔が襲ってきた。小さな母の姿。自分が今まで目を背けてきたこと。母であることを優先した姉に「お願い」されたこと。我慢ができずに泣いてしまった。いい歳した男が「ごめんなさい」と泣きじゃくる。ナースコールで駆けつけた看護師さんはきっと戸惑ったと思う。醜態を晒してしまったことを看護師さんにも謝る僕は、いったい何をしているんだろうな。
一週間経った。病室に取り付けられた無機質な機械を見るに少なくとも数値は安定しているようだった。心拍数、酸素吸入度、呼吸数はいずれも正常値を示していた。このご時世で、病院側からは付き添いする人間を一人に制限するようにお願いされた。母の症状は変わらず意識はなくとも暴れることはめっきり少なくなり、24時間体制でなくとも大丈夫だという判断だった。
ホッと息をついた。このまま改善に向かっているのだと思った。もしかしたらこのまま寝たきりにはなってしまうかもしれない。危篤にまで陥った代償は決して安くはないはず。それでもまた母と話ができるのだと思うと嬉しさが勝った。
無性に話がしたかった。僕は母と最後にした会話を思いだそうとしたが、まるで覚えていないのだ。なんでもない一言だったかもしれない。単なる挨拶だったかもしれない。今度はちゃんと刻み込もうと誓った。新調するメガネのことでもいい。フレームから選んであげよう。無頓着な父よりはセンスがあるはずだ。母の好きだった日向夏を箱で買ってあげよう。ああでも投薬の影響で味覚が変わって柑橘系が食べられなくなったと言ってたっけ。じゃあ母の好きなものはなんだ、でなくとも母にできることはなんだ。そうだ、服だ。サイズの合うものを買ってあげよう。今度は適当なんかじゃなく母にとびきり似合うものを。きっとまた喜ぶ。いや喜ばなくともいい。なんでもいい。声を聞かせてほしい。
病院で母に付いている父から「母の状態が良くない」と連絡があったのはそれから数日後のことだった。それから一時間後、また連絡があった。最後は家族で見守ろうとのことだった。
一時間後、病室にはベッドに寝かされた母とそれに寄り添う父と主治医の先生、2週間もの間お世話をしてくれた看護師達、そして駆け付けた兄と僕がいた。
母の様子は入院直後とまったく変わらなかった。違う点があるとすればもう酸素吸入器を外す体力すらないということだった。無機質な機械はもう正常な数値を示してはくれなかった。
左手に触れる。右手は兄。父は毛の抜け落ちた頭を優しく撫でていた。まだ暖かい。まだ母は生きている。このまま、母は死ぬのか?この期に及んで現実感がなかった。だってただ穏やかに眠っているようにしか見えない。
戸惑いを隠せないまま母の痩せ細った左手を握り締め、母の顔と計器の数値を眺め続けた。これから奇跡が起こって事態が好転するんじゃないか。そんな今時ドラマでも描かないだろう展開を、いち視聴者として馬鹿馬鹿しいと一蹴していたはずの展開を今か今かと待ち望んでいた。
突然、父が主治医に話しかけた。「オレはダメな夫だった」と。仕事に趣味に、好きなことを好きなだけやってきた父は家庭のことはすべて母に任せっきりだった。それでも母は文句一つ言わず自分の役割を全うした。まだこの人に恩返しができていない。これからだったんだ。この人の楽しい時間はこれからだったんだ。
嗚咽混じりに何度も主治医にそう話しかける父に僕は驚いた。あの父がそんな風に自身を省みる姿を僕は初めて見たのだ。父はプライドの高い人だった。自身の優秀さを疑わず前進し続け、人が羨む地位と名誉を手にした自分がやることに間違いなどないといわんばかりの態度を取り続ける、そんな父を僕は苦手としていた。その強い父が、弱音を吐いた。ついに母の死が避けられないことを悟ったのだ。
ああ、と涙が滝のように溢れ出た。ようやく現実が追いついた。マスクをしていて良かった、とこの煩わしい状況に初めて感謝した。あっという間に涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を晒さずに済む。声はあげなかった。歯を食いしばった。病室には誰かの啜り泣く声と計器の音だけが響いていた。
おもむろに立ち上がった主治医は母の脈拍を測り、頭を下げながら「ご臨終です」と独り言のように言った。本当にそういう表現をするんだな、と思った瞬間、また涙が零れた。
そこからはあっという間に時間が過ぎていった。やることだけはたくさんあったのだ。その間、母のことはあまり頭には浮かばなかった。日々に忙殺され考える暇などなかった。考えていたら動くことなどできなかっただろう。遺族が足を止めてしまわないように、こういった儀式はあるのだと実感した。
ある程度落ち着いて、ようやく母のことを考えられる。心を整理できる。たとえできなくともそれに努めることはできる。
母は最後苦しむことなく逝った。それはきっと僥倖だったのだろう。
母は幸せだったのだろうか。母は手芸が趣味だった。ドラマや映画が好きだった。甘いものが好きだった。けれど自分から何かを求めるようなことはしない人だった。お坊さんから戒名の参考にしたいと母の好きだったものを尋ねられたとき咄嗟には出てこなかった。僕の親不孝さは置いといても、それだけあの人は自分よりも他人を優先してきたのだと思った。
控えめで優しい人だった。僕は社会人になってから実家に多少お金を入れていたもののそのお金はほとんど使われることなく、いつのまにか僕の名義の口座がつくられそこにそっくり移されていたのを知ったときは驚きを通り越して呆れてしまった。僕はこの人のために何かしていた気になっていたのにこれでは意味がないじゃないか、と文句を言ってやりたかった。入金は今際の際まで続いていた。あの人は最後まで母親で在ってくれたのだ。
時間が経って幾分冷静になったのか、母との穏やかな時間を思い起こせているのは素直に嬉しく思う。けれど母のためにできることがなくなったことでこれから様々な感情を呼び覚ますことだろう。きっとこれからも何かの拍子に思い出し、何かを思い、そうして母を悼んでいく。母のいない日々が始まる。