Nothing is difficult to those who have the will.

エロゲとオルタナ。そんな感じ。ちょこちょこと書き綴っていこうと思います。

愛してるぜ、長山香奈。遅ればせながら、枕「サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-」の感想を書いてみる。


サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う- OPムービー

カナリヤです。本日は2015年に枕から発売されました「サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-」の感想記事です。今回は共通部分である序章からⅡ章は除外して、Ⅲ章の個別ルートとそれ以降のお話に焦点を当てて自分なりに思いの丈をぶつけていこうと思います。

それでは始めていきます。

 

※本記事は「サクラノ詩」のネタバレを含みます。あらかじめご了承くださいませ。

 

 

Ⅲ PicaPica


サクラノ詩 OST - PicaPica

真琴と圭、そして二人の実母である鳥谷紗希との関係性が描かれるルートであり紗希の元夫である中村章一とその中村家の異常性の一端が垣間見えるルート。

何と言っても直哉と圭という二人の芸術性に魅せられた真琴の健気さがひたすらに胸を打ちます。「つきのうさぎ」というブランド名も暗喩が効いてて良いですね。真琴は目指していたムーア展での受賞は叶わず、直哉に再び筆を取らせることもできませんでした。しかし圧倒的な才能という月に梯子をかけることくらいはできたのではないでしょうか。その景色を、空気を感じ取ることくらいは。才能という壁が立ち塞がった、そして確かな審美眼の持ち主という意味では長山香奈との類似性を感じざるを得ません。彼女の成れなかった姿、とでも言いましょうか。一歩間違えば同様に振り切った存在になっていたのかも。そうはならずに済んだのは偏に彼女だけの世界の美しさを信じ切れなかったが故でしょうか。傍らにはいつも圭の世界があった、そんな彼女の見せた凡人であることを容認した賢い在り方は長山香奈のような人間からしたら「そう思えたらどれほど楽か」と「私はあんな風にはならない」という相反する思いを抱く存在なのでは。この二人の会話シーンがあったら面白いものが見られそうです。

 

Ⅲ Olympia


サクラノ詩 Bright Pain

稟ルート。これまで頑なに語られなかった直哉が絵を描かなくなった理由が明らかにされます。ヒロインはもちろん稟ではありますが、それ以上の存在感を発揮したのは長山香奈。このお話は彼女という人間を理解するための前哨戦と言っても過言ではないでしょう。

直哉という圧倒的な才能によって自身の描く世界の美しさは陰りを見せ、彼女は絶望にのたうち回る。それでも芸術家という夢を、自身の世界を創造するという夢を諦め切れず、努力を続ける彼女の前にはいつだって直哉が立ち塞がります。彼が何をしようとも、何をしなくても、自身よりも美しいと思えてしまう世界を紡ぐ彼の芸術は容易く彼女の心を捉えるのだから。

彼のすべてが憎々しい。彼のすべてが愛おしい。彼の邪魔をするものを許さない。彼が躓く姿を見て嘲笑いたい。彼女の言動は常に矛盾を孕んでいてその様は実に愚かで滑稽です。そして自分という存在だけで完結できない弱さはあまりにもいじらしくその在り方が尚更彼女が人間であることを意識させられます。だから僕は彼女のなにもかもを否定できはしないのです。

 

余談ではありますが、このルートで描写した直哉という理想のヒーロー像を体現した在り方はある種作り物めいていて実に嫌らしくもあったと思うのです。

直哉の抱えていたものの正体はあまりにも残酷で、そしてそれ以上に優しい嘘でした。困ったときにはすぐ駆けつけてくれて、平気な顔をして救い出す、まごうことなきヒーローである直哉。でもなぜ彼はここまで強く在れたのでしょうか。これまで信頼できない語り手として周囲と読者を困惑させながらそれでも飄々として辛そうな素振りすら見せず、真実が明らかになってもなお彼らしさを失わない、そんな歪な強さは「何」によって支えられていたのでしょうか。「何」が崩れたとき、彼は膝を屈するのでしょうか。

 

Ⅲ ZYPRESSEN Marchen


サクラノ詩 OST - ZYPRESSENの花束

里奈ルート。そして女性でありながら彼女に恋い焦がれる優美の恋の物語。現在や過去の回想、そして伯奇伝承が彼女たちと主人公の視点を交えながら絡み合うお伽話。同性愛者故に感覚の差異から孤立する優美は、常にクラスの中心であり社交的な性格である里奈が夜の公園で見せた死の雰囲気を纏う姿のそのアンバランスな美しさに惹かれ、一方で重病を抱える里奈は優美に対して気高く誰にも媚びない美しさを見出だし自分にはない生命力を感じ取ったことで羨望し憎しみの念を抱きます。そして里奈は優美が自分に惹かれていることを自覚したうえで彼女の気高さを取り除くべく彼女にしか見せない自分を意識的に演じていきます。

毒キノコとオオカミの逢瀬は互いに歪みを抱えながらも甘美なものだったはずです。毒キノコはオオカミがゆっくりと自身の毒に蝕まれていく様に鬱屈とした快感を覚え、オオカミは自分だけが理解できる毒キノコの美しさに無常の喜びを得る。そんな爛れた日々は直哉の登場で幕を降ろすことになります。

優美は直哉を生涯に渡って憎み続けるでしょう。里奈に生命力を与え生きる美しさを見出ださせ、彼女の心を射止めた彼を。死を待つだけだった彼女に何も干渉できずただただ美しさしか求めず命を取り戻していく姿をただ黙って眺めるしかなかった無力な自分を意識せざるを得ないから。

同性愛者であり里奈の美しさに囚われてしまった優美は友人として側にいられる喜びと友人という枠でしか側にいられない苦しみに挟まれながらも彼女から離れることはできません。そして死の影から解放された里奈もまた自身の抱えた歪みで優美の強さを変質させてしまったことを後悔し、贖罪の思いから優美の側から離れようとはしません。

優美が千本桜による奇跡に抗い、自らの誇りによる美しい姿勢を掲げるのが「ZYPRESSEN」ならば千本桜の奇跡を受け入れ有り得なかった未来を紡いでいくのが「Marchen」です。過去の想いが現代に蘇り今生きている人間に影響を与えた結果、「Marchen」において優美は自身が諦めていた理想の未来をこの手に収めました。それまで当たり前のように自分たちの近くに居た直哉はいつのまにか距離を置き、里奈は当然のように優美の想いに同じだけの、むしろそれ以上の愛でもって応えてくれる。それまで三人の視点が存在していた物語は優美の視点のみに集約する、その狭く閉じた世界で展開する夢のように甘く溶け合う呪いの日々。その過度な甘さは間違いなく彼女の思い描いていた通りの、傍から観ればそれはまるで監獄のよう。

終盤、屋上から直哉と稟が共に歩いていく姿を眺める優美は持っていた「春と修羅」を投げ捨てます。厳かにそびえ立つ"ZYPRESSEN"の屈託は既に失われてしまったのだから。

 

Ⅲ A Nice Derangement of Epitaphs


Sakura no Uta ED - 天球の下の奇蹟

雫ルート。前章までで仄めかしていた直哉と雫の関係性、そして吹の正体が明らかになるルート。直哉の見せるヒーローという在り方。櫻の芸術家と謳われる彼は時に誰も真似できない作品を生み出します。それは「因果交流の灯」という他者を介してはじめて作品を創作するものだから。自身の解釈にしたがって構成するという一方的なものではなくあくまでも他者の心の揺らぎに寄り添い、その人の真に望むもの。得たいものを深層心理より産み落とす芸術。それまで自身の世界を唯一の美しさだと言って憚らなかった長山香奈ですら認めざるを得ない絶対性。彼はいつだって誰かの救いとなるために。

 

Ⅳ What is mind? No matter. What is matter? Never mind.


サクラノ詩 OST - Dear my friend

Ⅰ〜Ⅲ章を本編とするならその前日譚的立ち位置。短いながらも夏目家と中村家の確執、その壮絶な過去という構成はⅢ章までに見せた穏やかな日常に根差した幸福に繋がっていく過程なのだと感じました。端的に描かれたに過ぎませんが健一郎と水菜が心を通わす描写は情緒が溢れていて実に良い読後感に仕上がっています。処女ヒロインなんていらなかったんや!そして爆誕するロリ藍という癒し。かわいい。後の姉属性持ち藍てんてーである。

 

Ⅴ The Happy Prince and Other Tales


サクラノ詩 OST - 在りし日のために

前章から再び舞台は現代へ。藍ルートの側面はありますが、むしろそれは次章の方が。「櫻七相図」は直哉が描きあげたものであると看破した圭はそれに触発されますます作品製作に没頭していきます。そして直哉もまた圭の自分と直哉が切磋琢磨した末に辿り着く頂点という言葉に感化され、圭の成長のために再び絵を描く決意をします。

この章の終わりに待つものは、感の良い人間であるなら、いや作品をあるがままに受け入れがちな僕ですら気づいてしまったのだから、体験した人ならその誰もが焦燥感に追いかけられる感覚を味わってしまうのではないでしょうか。使い古された手法ではあります。過去同様の手法を用いた作品はいくらでも見てきました。でも、やはり慣れない。「やめろやめろ」と脳内でつんざく声は止んではくれません。「これ以上進むな」とブレーキを踏もうにも端からそんなもの在りはしません。僕には幸運にも坂から転がり落ちる経験はないけれど、その瞬間のフワッと浮き上がる感覚は想像に難くありません。分かっているのです。これから起きてしまうことを。

告げられた予想通りの真実は意外にもあっさりとしたものでした。それまでやけに荒かった呼吸は落ち着き、そして同じようにあっさりとした描写でヒーローの心が折れてしまったことが伝えられてしまう。若田から譲り受けた、最高の瞬間に飲むはずだったウィスキーを呑み散らかし、辛い瞬間こそ人間は生きているんだと嘯きながら藍に縋り付く直哉はもはやヒーローではいられませんでした。失い続けた星の王子様はついに小鳥すらも失ってしまったのです。

 

直哉が再び筆を取る過程において、稟の才能が具現化した存在である"吹"に勝負を挑むわけですが、ここで直哉と吹の二人の天才の勝負の見届け人として何度目かの長山香奈が登場します。相も変わらず彼女が直哉に付きまとっていたため都合が良かったという側面が強かったのでしょうが、この人選には非常に納得するものがありました。才ある凡人である彼女は、その審美眼は直哉も認めるほどの正確さを持ちながら創作においては甚だ凡人の域を出ないという彼女は限りなく僕らユーザーに近い立ち位置だと言えるからです。

余談ですが、この章は全編を通じて僕が唯一笑ったキャラ同士のやりとりが存在します。深夜の学園のプールを舞台に行われた直哉と吹の勝負。その才能を存分に見せつけ描きあげた作品を勝負が終わるや否や二人は文字通り水に流そうとします。この素晴らしい作品を後世に残さないなんて!とひとり焦り、せめて写真に収めようとする香奈でしたが、二人は聞く耳を持たず香奈の叫びの木霊するなか作品は跡形もなくこの世から消え去ります。

ここはホントに笑ってしまいました。もう腹を抱えてしまう程に。思うに本作は登場人物の比率において変人・奇人の割合があまりにも高すぎるのでしょう。つくづく凡人である自分では到底理解が及ばない言動が繰り広げられる本作において長山香奈は貴重な"普通の人間"です。彼女の言動はそれが一見エキセントリックなものだとしてもあくまで普通の感覚のもと行われる行為。だからこそ彼女の戸惑いは真に迫ってユーザーに伝わってしまう。共感を煽り、笑いを誘うものになったのだと思います。

 

Ⅵ 櫻の森の下を歩む

最終章。支えを失ったことで歩みを止めてしまった直哉が再び"櫻の芸術家"として因果交流の灯で人々を照らせるようになるまでの物語。

Ⅱ章にて既に明石が到達していた境地にようやく辿り着いた直哉でしたが、明石がその境地に至ることができたのは直哉という才能があったからでしょう。他人を介して完成する直哉の芸術は、彼自身はそう思わなくとも、なぜ作品をつくるのか、誰のために生み出されるものなのかという根源を殊更に問い掛けます。明石は「櫻七相図」を通じてそれを感じ取った。感じ取ってしまったのです。

長山香奈の破壊の是非

全編を通じてお話を引っ掻き回してくれた彼女が最終章にて行った節度を超える行為は、倫理的に考えれば当然容認されるべきものではないでしょう。彼女は彼女の芸術性を証明するためだけに草薙健一郎の設計のもと直哉たちが完成させた作品「櫻達の足跡」という過去の権威を踏みにじりました。その作品に込められた意味も、尊厳も、楽しさという感情も、なにもかもを己の芸術の有用性を証明するために消費したのです。彼女が稟ルートで見せた"行き過ぎた正義"の執行者としての姿は究極的には自身の鬱憤を晴らすためでも、失われた才能への報いを受けさせるという大儀がありました。ですが今回彼女は徹頭徹尾、自身のためだけに行動したのです。自分勝手なその行動の果てに生み出された非道な行いは非難されてしかるべきものだったと思います。

ただこの紛うことなき悪である彼女を否定できないのはつくづく彼女は持たざる者なのだなと感じてしまうからです。Ⅴ章で少しだけ触れましたが、本作は天才と呼ばれる人間が数多く存在します。その思考は決してトレースできないし、理解したフリをして流すほかありません。そんななかにあって彼女の存在は救いでありました。直哉という存在を妬み、羨み、焦がれて、拘泥する。才ある人間に寛容だった芸術という世界にあって彼女はただひとり"人間の小ささ"を隠そうとはしません。それは時に矛盾した言動へと変換され自身の矮小さを露わにしてしまう。なんて醜いのでしょう。なんて人間らしいのでしょう。その様は普通であるが故に異端に映ってしまう。

「価値が分かるなんて事なんて何の力でもないんです。価値を自ら作り出さなければ、それになんら意味などない」

彼女の不幸は身の丈に合わない"眼"を持ってしまったことでした。審美眼。真に価値あるものを理解できる眼も持ってしまったことで彼女は彼女以上に世界を美しく写せる存在を知ってしまいます。自身の世界の強さを指し示す作品の中でおそらくは直哉の作品だけが他人に寄り添う弱さこそを示しました。だからこそ直哉をして圧倒的な才能と称される"才能を取り戻した"稟の作品ですら稟自身の世界の強さを誇示するものでしかないと一顧だにしません。それは彼女の世界を否定するものには為り得ないからです。ですが直哉の他者の世界をより色濃く魅力的にしてしまう芸術性は別なのです。彼女以上に彼女の世界を魅力的に描いてしまいかねない存在は長山香奈にとって明確な敵と認識してしかるべきものなのでしょう。

「そうよ!あんたの絵を見るまでは、私は私の世界が一番だった!一番輝いていた!けどあんたを見てから・・・・・・私の絵は一気に色あせた・・・・・・」

しかしそれは彼女が芸術家になる夢を諦めることには繋がりません。それで自身の世界の美しさが色褪せてしまった訳では、いやたとえ色褪せたのだとしても、そして直哉に上書きされようとも彼女が美しいと信じる世界を描き出したいのです。

ですが彼女は己を信じて努力することだけでは自身の作品を芸術に昇華することはできないと考えます。芸術という"理解できないもの"は本来、他者に見られることで、他者が価値を見出だすことではじめて芸術足り得る。であれば、価値の見出だされない作品は作品ではありません。技術を習得する傍ら、自身をアピールするために地下アイドル活動も併行する彼女。描写自体はないものの藝大に進んだ後もそうした努力を怠ることはなかったでしょう。

「努力で得た技術体系こそ、凡人の武器。凡人の刃だって、天才どもののど元に届く事がある」

それでも届かない。天才と呼ばれる存在に比べて自身はそこから前に進めない。彼女と彼女の作品が、彼女の世界そのものが"ジャンク"でなくなるために取った手段は、その標的にされた作品「櫻達の足跡」を"ジャンク"にしてしまうという傲慢なものでした。

「私達が偽物でも、ほんの少しの才能と誰にも負けないほどの努力、そして他人がやらない様な手段、そして運があれば本物になれるわ」

マルセル・デュシャンの「泉」に端を発した現代アートの視覚的芸術から観念的芸術への移行は言ってしまえば「何でもあり」の価値観をもたらしました。既存の芸術作品の破壊はその悍ましさ故に強烈なインパクトと分かりやすい明確な意味を併せ持ちます。弓張学園の理事である村山氏はそこに価値を見出します。旬を過ぎてしまったかつての有名画家の遺作よりも現時点で価値を見出だせる――商品足り得るものこそを魅力的に感じ取る。誰もやらない様な手段を用いることで、本物になろうとした長山香奈はようやく風穴を開けることに成功しました。その瞬間、彼女はまさしく芸術家であったはずなのです。

思えば作中の登場人物たちのなかで、こと芸術に関して素養のない人物はいかなる作品においても「金銭的価値」を絶対のものとして見ていたように思います。そして芸術を作り出す側の人間は誰も彼も芸術に対して常に高潔で、好人物で在り続けていました。でもそれは才能があるからです。才能を評価され、実際にその手で創作された作品は人々の胸を打つ。その理想的な循環がなされていたために彼らは美しく在り続けられたのです。しかし人間はそこまで綺麗なままでいられるものでしょうか。どんな高尚なテーマがあろうと、類い稀な技術があろうと、才能という暴力ですべてがねじ伏せられてしまうのに。

僕は凡人です。そして矮小な人間です。浅はかで、短慮で、自分の蒔いた種が原因で後悔しても他人を恨まずにはいられない、そんな醜い人間です。才能のない彼女の醜い姿は紛れもなく僕なのだ。でも彼女はその醜さを携えたまま自身を「才人」と宣えるほどに努力を重ね続けました。それはまるで諦めてしまった者の分まで背負うように。

「たぶん、諦められないのは、私がバカだから」

だから僕くらいは彼女が芸術家に到達したこと、じっと評価されることを願って静かに努力を続ける高潔さを保てなかった弱さを肯定してあげなくちゃいけないんです。気高くは在れなかった彼女の足掻きは、どうしようもなく愚かで、醜く、人間らしく、そして正しい。それをきっと美しさと呼ぶのだから。

終わりに

正直プレイ中は癖のあるテキスト、いくらでも沸いてくる奇人・変人の応酬に何度も心が折れかけましたが、ある一定のラインを越えてしまった後はこの独特な世界観の虜になっていた自分がいました。その契機はやっぱり長山香奈という存在が僕の心に突き刺さってくれたからだと思うのです。天才達のなかにあって彼女の人間らしい醜さが浮き彫りになったことで本作の作品性との付き合い方が理解できた、彼女を介して本作を楽しめたという意味では彼女は僕にとっての弱い神様でした。

いくら言葉を重ねても解消できないもどかしさを伴うこの読後感、この味に舌鼓を打ってしまった後ではプレイ中に感じた欠点などもはや然したる意味を持ちはしないでしょう。そのくらい僕は「サクラノ詩」に参ってしまった。この胸のすく思いはきっと櫻のようなもので、花が舞い散るように忘れていってしまうのだろうけど、今回拙い感想記事を書いたことでまた思いを馳せる日が来ることを僕は期待しています。

そうだね ここからが たのしい世界さ

 

 

 

 

サクラノ刻、はよ。