Nothing is difficult to those who have the will

エロゲとオルタナ。そんな感じ。ちょこちょこと書き綴っていこうと思います。

こわれる。

先日、というか昨日ライブに行ってきました。お目当ては…まぁ便宜上「彼ら」と呼んどきましょうか。名指しして何かを言いたいわけではないですし、とりあえず。

一応今回の目的は僕の中で燻り続けている「彼ら」への興味・関心を昇華させる、今一歩ドハマりするに至らない何かを埋めるための強硬策、というのがあって。結論としてはこの試みはまさかの失敗に終わったとみてよさそう。

僕にはライブでつい出てしまう癖がある。とは言っても大抵の人が該当するのではとは思うが指でリズムを取ってしまうことと、軽いヘドバン。たとえ仕事帰りだろうと立ちっぱなしで足がパンパンだろうと無意識化の行動を抑制できない。隣の人が迷惑そうにしてようともお構いなしだ。この場においては衝動に抗わないという正しいことを僕はしている。「彼ら」の曲を聴いている間、これがもう全くと言っていいほど出なかった。少しも。ピクリとも。曲がりなりにも「好きかも?」な状態を持続させている対象に対して嘘でしょ…?と愕然とするも、事実として受け止めざるを得なかった。あぁ、少なくとも現段階では「彼ら」は僕の琴線に触れる対象ではないのだ、と。

 

 

僕は音楽をよく聴く方、だと思う。べつに誰かと比べたことはないし、比べたところでどうなるものではないと思ってはいるが、重要なのは僕自身が音楽を必要としているか否か。外に出るのに際してイヤホンの類を欠かせないくらいには、うっかり忘れてしまった時にはアタフタとうろたえてしまうくらいには、僕は音楽を欲している。その瞬間は断続的にだが訪れている。

その反面、本当に好きだと自信をもって言える音楽は自分でも驚くほどに少ない。元々何をするにも受け身で、消極的で、ついつい物事を否定的な見方からしてしまう身上も相まって僕の守備範囲はものすごく限定的だ。ただ一度でも好きだと認めてしまえばそれは自身のめんどくさい垣根を飛び越えてくれたものとして手厚く迎え入れる。もうそれしか目に入らないほどには自分の中に専用の空間が創られていく。熱しにくく、冷めにくいのだ。良くも悪くも。

それを知っているからこそ、そうなる可能性を少しでも感じたのなら逃したくはないのだろう。あの甘美さを、陶酔感にトリップする感覚を、何度でも味わいたいと思うからこそ、触れようとする行為は終わりを見せないのだと思う。

「生音信仰」と呼んでいるものが僕の中には存在する。生音——すなわちライブを、生きた演奏を実際に観て、聴いて、味わうことで、強引にでも対象の評価を高めてしまう。彼らのパフォーマンスや人間性、周囲の空気感を肌で感じられる絶好の機会。それだけの価値がライブにはある。僕は無知故に単純なのだ。この手法で落ちなかった僕は過去にはいなかった。「彼ら」への煮え切らない感情も、結局はライブという圧倒的な物量でもって押し切ってしまえばいとも容易く傾いてしまう、その程度のものなのだと思っていた。まさか傾いた方向が逆を向くとは思いもよらなかったが。

なぜ心が何も揺り動かないのか。フラットのまま感情が動きを止めてしまうのか。場内の熱気とは対照的に急速に萎んでいく僕の中の「彼ら」。

きっと曲を知らないからだろう。今回演奏された曲はいずれも僕にとって未知のものばかりで、それが致命的なまでに作用したのだろう。僕はそうやって自分の中の喪失感をごまかそうとしたものの、次に登場した僕にとって「彼ら」よりも未知の存在だったバンドにあっさりと心を揺さぶられてしまったことで、未知が作用したが故のものなどではなく、そしてその喪失感こそが真実であることを正しく認識してしまうのだった。

 

僕の「生音信仰」は、その神話性は容易く崩壊してしまった。「彼ら」への興味・関心とともに。今回の一件だけで判断するのは早計なのではと思わないこともない。あまりにも一面的に過ぎるからだ。でも「彼ら」という感性は剥がされ、そして「彼ら」のいない生活だけが残った。今はその思いがどうしようもなく心の多くを占めている。

これは果たして僕にとってどういう意味を持つのか、今の僕にはまだ判断がつかない。数多ある音楽のうち、たったひとつの存在が僕の中で消えてしまっただけ、と取るのか。それとも忙殺される日々の中で、可能性が潰されていくことが日常化していくことのきっかけとなってしまうのか。大げさな物言いかもしれない。でもそれはとても怖いことだ。とてもとても怖いことだ。けれどこの喪失感が痛みに変換されない間は、僕はこれからも音楽を聴き続けていくと思う。僕にはまだ音楽が必要だからだ。