Nothing is difficult to those who have the will

エロゲとオルタナ。そんな感じ。ちょこちょこと書き綴っていこうと思います。

遠い日の散らばった夢は、星になって頭上にあった。遅ればせながら、劇場版「フリクリ オルタナ」を観て、改めて「フリクリ」に思いを馳せる。

Blues Drive Monster

歳の離れた兄がpillowsにドハマりしていた頃、僕はまだ小学生だった。TVから流れてくるポップソングとは少し違う、まだ違和感としか受け止められなかった幼い時分。そんなpillowsを自らの意思で聴いている、僕にとっては既に大人のような存在だった兄への憧れとか羨ましさとか。少しでも近づきたくて兄を追いかけるように僕もpillowsを聴き始めた。タバコとか、そういうのと同じようなものだったんだろう。そうすることが当時はバカみたいにかっこよく思えたんだ。

背伸びから始まった僕の音楽観はこうして時間をかけて少しずつ形成されていった。そんな頃だ。「フリクリ」を初めて観たときは。ちょうど主人公ナオ太と同じくらいの。

 

「pillowsが作中音楽を担当する」程度の知識しかなかった当時の僕にとって「フリクリ」は特別な存在ではなかったように思う。制作はあのガイナックス!キャラデザはあの貞本義行!なんて言われてもまったくなんの知識も持ってない小学生の僕にとってはひたすらに自分の好きになりかけてたpillowsが、どういう選曲で、どういう場面で使われるのか、くらいの興味しか持ち得なかった。それでも数か月おきにOVA仕入れてくる兄との時間がとても楽しみだったのは子供ながらに感じ取っていたからだろう。全力でバカをやるとはこういうことだ、を体言するあの万能感を。あのロックンロールのとんでもない引力を。

カンチが敵の攻撃を受け止める瞬間に合わせた「LITTLE BUSTERS」はため息が漏れるほどかっこよかった。

ナオ太が落下してくる衛星に向かってフライングVをフルスイングする姿にシンクロさせた「Crazy Sunshine」は反則だと思った。

ベスパを駆るハル子の「クライマックスだ!」というセリフと共に流れる「LAST DINOSAUR」は分かりやすく心が躍った。

他にもこれでもかというくらい注ぎ込まれたpillowsの楽曲とともにワクワクは途切れることなく画面の中の冒険に身を委ねていた。

 

白い夏と緑の自転車 赤い髪と黒いギター

でも、残念ながら当時の幼い僕にはこれを自分の中でどう受け止めればいいのか、どう飲み込めばよかったのかさっぱりわからなかったのだ。なんだこれは。なんなんだこれは。

「いろいろ説明しないままだけどこれで終わりなの?」

「メディカルメカニカってなにがしたかったの?」

「あのアイロンってなんなの?」

フラタニティ?ん?」

「ハル子の目的ってなんだったの?」

「アトムスクって、海賊王って何?」

「どうしてハル子はナオ太を連れていかなかったの?」

僕は隣にいる大人に質問をした。何度も何度も。でもその度に兄は素っ気ない対応ばかりで、僕はヤキモキしたものだ。まぁ冷静に考えれば歳の離れた弟が周りでウロチョロウロチョロしてくるのは相当面倒くさかったはずでそんな存在にまともに取り合うつもりなんてサラサラないよね普通。僕だってそうする。

当時の僕もそんな兄のつれなさを子供ながらに理解しつつも分かりやすく悪態をついたりしたものだ。

でもまぁ今になって思うのだ。弟を邪険にする気持ちが大半を占めていた一方で、そもそもOVAだけで理解させるつもりがさらさらない多重構造的に展開していくこのお話をあんこの足りない弟に上手いこと説明するなんてそりゃ無茶な話だったわけで。

「結局この話って(主人公にとって)なんだったの?」

そしておそらくは当時の僕が最も知りたかったのはこれだった。けれど構造の一部としての比較的シンプルな言葉だけで事足りてしまうものですら、シンプルであるがゆえにまだ子供でしかなかった僕に対して説明する術を持っていなかったんじゃないか、と。

 

「登場人物の気持ちになってみるといい」

食い下がる愚弟に対してつれない兄が助言したのはたったこれだけだった。

登場人物といっても大半は当時の僕より年上で性別も違うため、感情移入を試みることができたのは主人公であるナオ太ただ一人だった。歳の離れた、今は遠い地で夢を追う兄を持つ、どこにでもいるような少年。でもたとえ自分と似通う部分があるにせよ、背伸びの現在進行形だった当時の僕がナオ太を客観視することなんて土台無理な話だったんだろう。

今だったら、今だからこそ分かる。あれは大人になりたくて、それ以上に子供でいたくなくて。どうしたらいいか分からず簡単に諦めたり周りを幼く思ったり調子に乗って自分を過信したり、大人ぶることしかできなかった何の力もない子供がどこにでもいるただのガキであることを何よりも自分自身が認める、そんなありきたりで特別な物語だったんだと。

大人になって観た「オルタナ」は内容が直球だったとはいえ、とても分かりやすかった。女子高生。小学生。女子と男子。違いはあれど根っこは同じなのだ。なにものでもない自分。やりたいことなんてない。自分より大人っぽい、自分にはない夢を持っている友人に憧れる。毎日が変わらずにずーっと続けばいいと思ってるお気楽な子供。

どちらも大人になった僕等なら誰しもが通った経験のあるそういう普遍的な。あの頃に戻りたいと誰もが一度は思うような。

 

Thank you, my twilight

今作に関して言えば、正直内容に関して素直に称賛できない部分は多少なりともあった。この作品が割とネガティブに捉えられることも、前作が好きであれば尚更許せないと思うようなことがあったのも事実だと思う。


でも終盤で流れたあの曲を聴いた途端、目頭が熱くなってしまった。途端にだ。まるで反射だ。そんなものはどうでもよくなってしまったのだ。あのシーンが劇中のカナたちではなくてそれを観てる大人になってしまった僕たちに向けたものに思えたからだ。

ありがとう、僕の黄昏れ。すごく、すごく胸に来る言葉だ。過去の自分。成し遂げたこと。成し遂げられなかったこと。失ってしまったこと。それでも抗った自分。なにものでもなかった僕だからこそ、このお話が5年後、10年後の彼、彼女たちにとってのかけがえのないものになるんだろうってことがわかる。

涙がこぼれそうになったのは僕が大人になったからで、涙をこぼさずにいられたのは僕が大人になったからだ。

 

オルタナ」というタイトルが好きだ。音楽ジャンル的にという意味じゃなく。いやもちろんオルタナは好きだけどさ。 当たり前だろってくらいpillowsは最高だったけどさ、そういうことじゃない。普遍的なモラトリアム期特有の悩みや葛藤を持つ彼らは、大人になった——なってしまった——僕らの過去そのものだ。僕らの「代替物」としての彼ら。そしてそんなありきたりな彼らの手に入れた何かは誰に理解されるでもない彼らの「唯一のもの」になっていくんだろう。そんなことはない?いや、かつてのナオ太、そしてかつてのカナだった僕が言うんだから間違いない。オルタナが持ち得たオルタナ。面白いじゃないか。製作者の意図がどうあるかは知らないけど、エンディングを聴きながら僕はそんなことを考えていた。


かつての僕が、小学生だった僕が目の前にいて「フリクリって結局なんだったの?」と無邪気に聞いてきたら、僕は、あの頃の僕が理解できるようにちゃんと答えてあげられるんだろうか。多重構造。メディカルメカニカ。海賊王。ハル子という目に見える自由な大人。大人ぶろうとする子供。大人になりたくない子供。pillowsのMV。はちゃめちゃな、荒唐無稽なシーンの数々。かつての兄のように(と思うのはあくまで僕の推察でしかないけども)やっぱり答えに窮してしまうんじゃないか。こればっかりは自分の中でこういうもんだと落とし込むしかないんだろう。

「登場人物の気持ちになってみるといい」

そこにあるのが謳歌であれ。後悔であれ。青春ってやつはそんなもんだろう。

 

流れ星にまたがって無限の宇宙を旅した少年は今、なにものでもないひとりの大人になって無数の星たちを見上げている。